今自分が意識していることは、居場所を増やすことだ。
それは所属するそのコミュニティの数を増やす、そういう意味でもあるし、大切な人を作る、増やす、関係を深める。そういう事も含む。
命綱を増やすこと、その綱を太く丈夫にするということなのだろう。
私の顔を見て元気そうで嬉しいよと言ってくださる、そういう人がいる。そしてそれは社交辞令ではなく本音で言ってくれていると、心から言ってくれていると信じることができる。
うぬぼれ屋と言われてしまえばそうかもしれない。
だが、私は本音でそう言ってくださっていると確信している。
また、頂いたお手紙を見直したときなどもつながりを感じる。
そして、相手がわたしにそれだけの価値を認めてくれているとして、もし私が窃盗をして、そしてそれを医師に正直に言わなかったら?
その方は傷つくだろう。がっかりするだろう。
いや、もしかしたら、穏やかに受け止めてくれるかもしれない。
だけれどもその人が好きな私は、もし窃盗をした時につらくても申告できる。
そういう自分ではないだろうか?
またシンプルな話として大切な人と過ごす時間は限られている。
相手があと何年生きるかわからない。私だって病気事故天災何が起こるか分からない。
やはり失いたくないものを増やす。それが最適解なのだろう。
人、場所、楽しい時間、楽しい経験、そして自尊心。
自助グループの中でサービスを担うようになる、そうなればそれは自尊心を高める。
役割を担っている間に窃盗を犯して役割を果たせなくなるのは困る。
それに単なるお客さんではなく、責任ある立場になっていながらスリップをするというのは、自尊心が傷つく。
自尊心を持つということが抑止力につながるだろうか。
依存症界隈以外の居場所ももちろん重要だ。
そこでの時間や関係もやはり抑止力につながるような気がする。
依存症者は比較的偏ったものの見方をしがちであるかもしれない。
そう考えると、"依存症"という共通項以外での繋がりは欲しい。
困ったときに相談できる相手が増えるという実際上のメリットも無論あるだろう。
馬鹿話ができる相手がいると純粋に楽しくもある。
要は失いたくないもののを増やすというシンプルな話なのかもしれない。楽しい経験が増えれば、それを手放したくないと思える。
また、後ろめたい気分で気持ちで生活したくない。
たくさんコンプレックスはあるし,後ろめたいことは数知れずしてきたし,欠点が多い人間であると思う。したくないことを先延ばしにしてしまっている。
現在も進行形で母を苦しめている。
でも、ほんの少しかもしれないが、努力もしているつもりだ。
それに、一年半前よりはマシな人間になったつもりだw
その過程ではしたくないこともした。
発覚していない罪を申し出たり、家族は知っていたものの申告していない罪を申告して自発的にお金を払った。
行政からの罰金の五十分の一の金額だ。
だが、私にとってはそちらの方が現在の私という意味で意味がある。
その経験は自惚れ誇りしている。
だがだからといって再度同じことをするのはごめんだ。
ともあれ、その自尊心は大きな抑止力かもしれない。