劣等感と自信

人を比較するイメージ


なぜわたしが盗っていたのかを考えると、私は非常に強い劣等感があった。

その劣等感は「欠けていた」「欠落していた」という感覚、あるいは「えぐれた傷跡」のような感覚かもしれない。

その欠けた何かをそのまま空虚なままで置いておくのが苦しかった。

自分が惨めな存在であると思い込み、そしてそれは他人のせいであった。

そんな惨めな存在に『なってしまった』自分を憐れんでいて、その強い劣等感をごまかすために、なにか高価なものを身に着けたり、あるいはろくに理解もできていない知識を詰め込んだり、理論武装をしてみたり、他人を攻撃したり。

そうしたことで自分の苦しい心をごまかそうとしていた。 

他人と比較する事に問題があるという発想は全くなかった。

そして惨めで劣っているこの状況から抜け出そうと健全な努力をする、ということをしなかった。 

 

何をどれだけとっても結局満足はしなかった。

だから盗る時も自制心などなかったし、やめるべきだという発想ができず自分が満足するかどうかでなく、他人と比較し、他人より優位であることを求めて窃盗行為をした。

そして他人に見下されているという被害妄想に囚われ続け、また心の内で他人を攻撃していた。 

それは親であったし、全く無関係な他人でもあった。

相対的優位に立った気になりたかったが、当然ながら実際はなっておらず(そもそもそれを求める時点で自律志向、絶対的価値を持てていないわけで他者と比較することへの疑問を抱くことの必要性という話になるのだが)悪循環であったように思う。 

 

盗んでまで自分の身を飾る必要などないのだと、むしろ、それは自分の自尊心を貶める行為で永遠に満足感が得られない行為だと気が付き、自分は何を求めているのか考えた。



どういう自分になりたいのか?

他人より優れた存在である自分になりたいわけではない。

物を持っていても、それで他人より優れた存在になるわけではないのだが、そんな当たり前の事にすら気付けないでいた自分なのだ。

ただ、自分が満足できればそれで充分であり、その満足は他者との比較によって生まれるものではない。

過去の自分との比較だ。あえて言えば。 

もしくはなりたい自分であるのかどうか、そしてそのなりたい自分がどういう自分なのかというのをイメージした際に、ハリボテで、怯えて武装している自分がかっこいいと思うかどうかだ。 

自分がおびえているということをろくに口にすることもできず、自覚することすらできず。 

弱さを直視できないでいる自分。 

他者に攻撃された気がして攻撃から身を守るために盗みを繰り返す自分。 

何て格好悪いのだろう。

 

300円のTシャツを着ていて、仮にそれをバカにしてくるような人間の目を気にしなくなるにはどうすればいいのか?

見る目ないねバーカ。

そんなんで私の価値は損なわれないよバーカ。

そう言えるだけの「自分への自信」を持てるようになればいいのだと気がつき、その為にはどうすればいいのかと考えると、”何か行動を起こす”という一つの解が浮かんだ。

成功すればそれは自信となり、失敗しても改善点を見つけることができて成長を感じることができる可能性がある。

 

自分の無力さを認める事。

改善しようとする、態度価値。

 

安心できる存在。あるいは、安心感そのもの。

 

欠けていたものに少しづつ気が付き、少しづつ得て。

落ち込む時もあるけれど、他者とのふれあいを楽しめるようになって。

 

以前よりは自分を肯定的に思えるようになったこと、それは自信という言葉に置き換えてもいいのかもしれない。