「助けを求める」

助けは、まったく見ず知らずの一期一会、赤の他人であれば、比較的にだが深く考えすぎることなく求めることができる。

子供のころに助けを求めたエピソードもいくつかある。

 

10歳ころ、性犯罪被害にあった。

日曜日の朝であったが、翌月曜日、学校を欠席だったか早退だったかして保健所へ行き援助を求めたことを憶えている。

 

まず受付で状況を話し、どこの課で対応をしてくれるのか、繋いでほしいとある意味専門家に委ねた。

警察にも一人で行き、事情を話して指示を仰ごうとした。

 

だが、親には喋らなかった。

膣洗浄などの費用がかかってしまうわけだが、それは自分の小遣いだったか貯金から工面したのだ。

 

憐みの目で見られそうで嫌だった?

そうかもしれない。

いちいち穿った見方をしすぎだと、被害妄想が激しいと、なんだその年齢不相応かつ不必要に高いプライドはと、言いたいことはあるが象徴的な出来事の一つである。

 

 

対人関係、というものが苦手なのであろう。

親族でなくとも、友人知人職場関係、そういった関係が深まってきた相手と上手に距離をとれない・距離感がつかめない。境界線をひくというのもへたくそだ。

自己評価の低さも原因の一つであろうか。

 

業務として対応してもらう、或いは"通りすがりの人に頼みごとをする"ということならばしやすいというのは、自分なりにマニュアルに基づいて行動をしているという感覚が近いかもしれない。

それはしていいことなのだと、自分で決めているように思う。

性善説に基づいて、市民同士助け合うのってイイよね!という風に。