今まで罪を犯したことのないものだけが

マグダラのマリアの話。今まで罪を犯したことのないものだけが、この者に石を投げなさい。もしこの発言をマリア自身が行ったらどうであろう?受け入れてもらえるとはあまり思えない。イエスが言うから受け入れられたのではないだろうか。原罪を負っていないイエスなればこそ、この発言が説得力があり、石を投げるものの手を止めさせたのであろう。

罪。窃盗を犯した者を非難する声は当然であるかもしれない。とは言え、ただただただただ闇雲に窃盗を非難するだけという者もいる。何を言っているのか意味不明であると、いいたいわけではない。だが、同時に。向こうは全く何を理解する気もなく自分が安全な場所から正論を並べ立てるだけという、まるで相互理解をするつもりなどないただ不満を吐き出すはけ口、攻撃する目的の為だけに、感情のはけ口として、利用しているだけという印象を拭えない。 

窃盗は犯罪です。そう口に出したいだけか。それを言って満足したいだけなのか?それを踏まえた上で発言しているようだと、なぜ理解しようとしてくれない、と、それを犯罪者側が口にしてはいけないのだろう。わかってほしいと言う権利はないと、そういうふうに言うのであろう。罪人は何も言う権利がないと。 

1度でも罪を犯した者は、あるいは1度ではなく、何度も罪を犯したから。そういったものはもはや何も権利を主張することができないとそういうのであろうか?

この国の司法制度は2度以上の罪を犯した人間に対してはもはや許されることはなく権利を主張することができないというふうにはうたっていない。現状の三権分立のこの日本国憲法下では。国民が総意で法律を作ったことになっている、国民のマジョリティーの考えでは、一定度以上の犯罪者に対しては矯正施設へ収容することになっている。しかし、そこで罪を償い終えたら社会復帰することは認められている。そう理解している

この場合の社会復帰が何を意味するのか、どう定義づけるのかは正直わからない。罪びとは、幸福になる権利がないのだろうか?幸福を追求する権利がないということであろうか?そう考えるから、ぬけぬけとなどというような言葉を甘んじて受け入れなければならないのか? 人それぞれの価値観、考え方。そういったものがあるということは承知しているつもりだ。だが、それでもやはり。罪を犯した人間が幸福を追求してはならない。いや、違う。うーん。罪を犯した人間に対しては罪を幾度も犯した人間に対しては何を言ってもどのようなことを言っても構わないと、そう思ってそう口に出しそう行動をとる。それを受け入れなくてはならないと言うのだろうか。

 

 

私自身は今のところ、目立つ行動をとっておらず正論による責めを受けた事がほぼ無い。

だが、尊敬する大切な人が誹謗されているという話を聴くと、それはとても悲しくくるしい