治療・回復のためのツール、手段

たまに不安になる。

私はきちんと自分と向き合っているだろうか?自分の内面をきちんと掘り下げているだろうか?自分の見たくない所を見ているだろうか?格好付けていないだろうか?表面しか見ていないくせに、もしくは何も見つめ切れていないくせに。

今こうして考えていることそのものだって、そうだ。

心配してるふりをして不安になっているふりをして。自分を見詰めたポーズだけ決めて、それで満足してしまってはいないだろうか?私はきちんと自分を見つめて、そして。見つめたことで満足しておえてはいないだろうか?なぜわたしは問題のある行動を起こしてしまったのか?なぜ私は今、問題行動を起こし続けているのだろうか?なぜ未だに改められていないのだろうか?こうして考えるポーズだけを撮ることで満足して、結局何も改善に向けた努力をしていないのではないだろうか。ミーティングに出ることそのものだって、そうではないか。私はきちんとミーティングで求められているというか、私が目的としている自分の内面を見つめ直して、自分の内面を見つめて。そして見たくないものをきちんと見ることができているだろうか?私の中に何があって?それが理由で何が理由で?問題のある行動を起こしていったのか?ただミーティングに出て、上っ面だけ言葉を並べてそれで満足してはいないだろうか?ミーティングにでることで安心してはいないだろうか?慢心してはいないだろうか?ミーティングに出ることが目的なのではない。最終的な目標は何だ?目的はなんだ?私の最終的な目的は、自分が望む満足できる人生を送ることか。であるのならば、その邪魔になっているものはなんだ。もちろんアディクションも邪魔だ。だが、アディクションはどちらかといえば、私の内面に問題がある私の価値観私の考え方に問題がある。私の行動パターンに問題がある。私のくせに問題がある。行動癖思考癖そういったものに偏り・問題があるせいで症状として現れてしまったのが恐らく。依存症。そのものなのだろう。 

いわゆる歪んだ認知、まずそれに気づき、そしてそれを正したいのだとすれば、じゃあどのように正したいのか?本来どういう風にあることが望ましいのか、それを見つけて、そして私の考えをどのように、より望ましい方へ戻して行くのか、それを考えるために。本来であれば、ミーティングに行くなり何なり少なくとも内面を見つめる意味っていうのはそこにあるのだろう。 

自分の安心材料にするためにミーティングがあるわけではない。通院するだけでアディクションが治るわけではない。それらはあくまで補助ツールだ。ただ自分一人では何もできないとは言わないが、自分一人では不十分であるから、自分の治療を助けるツールとして存在するだけだ。結局、自分を治すのは自分だ無論、一人で直せるとおもっていない。たくさんのたくさんの補助的なツールと言うと語弊があるかもしれないが、とにかく自分ひとりだけで直せるわけではない。それは無論なのだだが。

だからと言って病院に行ってる、だから自分は大丈夫だ。自分はミーティングに出ている、だから大丈夫だ。それもまた違う。そこでたくさんの気づきや情報や助けを得て、そして。スリップしないようにするなり。あるいは。より望ましい行動に改めていく。というふうなことを重ねながら、より楽な方を目指す。

それが本来のというか、望ましい在り方なのであろう。