「2022年」 「年末年始」

重箱のお節




2022年を振り返って思うことの一つは、少しは回復の道に乗れたのだろうか?回復を進められたのだろうか。治療を進められたのだろうか。

そのことです。

少しはステップ1、己の無力を認めるということはできたかもしれません。ですが,完全に終えてステップ2に進めているか? 恐らくステップ2を始めることはできていません。

と思ったけれど、もしかしたら自分を超えた、大きな力というのをミーティングに象徴されるような『自分以外の他者』というふうに仮定すれば、多少なれども認められるようになりつつあるのでしょうか。

とにかく人に助けられることの多かった一年であるということは心から思います。

多くの出来事があった一年でした。

その中で自分の感情を、内面を少しは見つめられたかと思いますし、それは話を聞いてくださる多くの人がいたおかげであろうなという風に思います。 

同時に、気づくことがあっても、そしてそれを解決する手段を見つけても、結局それを実行できていない自分の弱さに悲しくなります。

悲しむのでなくて、ならば行動しろという話でもあるはずなんですけれど、結局こうやってキーボードを叩いて自己憐憫に浸っているばかりで行動できていないという、そもそもそれ自体が情けない話なんですけれど。

 

得るものももちろんありました。

ですが自分が情けない哀れな存在というか、自分の存在価値の低さ。

その表現では大げさすぎるかもしれません。ですが自分という人間のネガティブ要素を多く多く見ることになってしまって落ち込む思いがします。

自尊心の低下を感じる、そして反省ではなくこうして自己憐憫に浸っているという事実もまた、苦しい思いを感じています。 



 

 年末年始、子供の頃はそういえば無邪気にはしゃげていたなあと思います。

ツリーを出して電飾も飾って。クッキーを焼いたりケーキを作ったり。

そしてクラッカーを鳴らしてなんて言うこともしていましたね。あの時は。

年に何回あるかわからない、両親と姉妹四人全員リビングにそろって。

 

ただ印象深いのは、年末年始は現金をもらうことがそういえば多かったなあと。

終業式の日、通知表を見せ成績次第のご褒美として現金をもらいました。

クリスマスは5000円の現金をそのまま財布から直接手渡されました。

お年玉も財布から1万円札を取り出し、それを手渡されました。

その時、私が思ったことを覚えています。

むしろ同年代の子供よりも大人なんじゃないかと。同年代の子供達は、おもちゃなんかもらって、あんなおもちゃなんて幾らか知らないけれどそんなおもちゃを貰う子供達よりもよっぽど現金をもらったほうが口出しされず自分の好きなように使えるんだから大人なのだと、そういう風に思考しました。

物を手に入れるためのツールとしての現金。

それを手に入れたと考えることはあっても、○○を買って貰えて嬉しいというような、気持ちを受け取るという経験を思い出せません。

お金で買えないものがある、そういう感情的なやり取りというのがあまりなかったなと。

そして、もしかしたらその事に寂しさも感じていたのかもしれません。