10歳頃から15歳頃にかけてだろうか。
自傷行為をしていた。
目的は母に見せつけるためだ。
そしておそらくsosの目的もあったのだろう。
私が精神的に傷つけられているとアピールすることで傷つけた側である母を責め、母を思い通りに動かそうとしていたのかもしれない。
結果としては全く思い通りにならなかった。どころか、より傷ついた。
私がそのような行いをしようと痛くも痒くもない。 何も思わない。
ただ、家具などを汚してくれるな。
そう言われて、自分には価値がないのだと思い知らされた。
思い返すと同じようなことは何度も繰り返している。
15階建てのビルの屋上で「ここから飛び降りたら死ねるかな?」 と尋ね「試してみれば」と言われたことが忘れられない。
同じようにマンションの3階でベランダの柵の外に出て、飛び降りるふりをしてみて反応を見ようとすれば「恥ずかしいからやめて。そもそもできもしないくせに。」と言われ、スゴスゴ柵の内側に引っ込んだ時の悲しみと屈辱 。
精神的にも自分で自分を傷つけていたのかもしれない。
反応をみることで、自分が愛情を与えられているかどうか確認したかったのだろう。
そして求めている反応が、愛情が、自分には与えられそうにないとそう理解したとき、その時の悲しいという感情を自分は表現することができず、裁くという行為に置き換えた。
親というものは、子供に対してそのような言動をするべきではない。
親だからといって子供にたいして加害行為をしてよいのか?体罰は暴力ではないのか?他人同士であれば、暴行罪、あるいは傷害事件になるのに、親対子の場合はなぜ免責されるというのか。
私はそうされると痛くて悲しい。私はそう言われると悲しくて辛い。そのような考えが思い浮かぶことすらもなかったように思う。
悲しい。傷ついた。そのような思いというのは弱いということにつながると、そう思っていた。
弱いというのは格好悪いことであると。屈辱的であると。ばかにされてしまうようなものであると。そう考えていたし、今でもそう考えているように思う。
馬鹿にされるのは嫌だ。人から下に見られたくない。見下されたくない。
だから弱さにつながるような感情というものは否定するべきであると。
そう考えたのだろう。そして今でもそう考えているのであろう。
自分を実際以上に、大きく見せる必要がある。実際よりも強く見せかけたい。
傷つけられたなど屈辱的だ。