One Day at a Time

One Day at a Time 今日一日

アディクションの衝動だけでなく、自身の行いに関しても、仲間とのつながりが助けになっている。

 

数日前、また些か強い精神的落ち込みが発生して「なんか言語化しづらいけど消えたい」というような気持ちになった時、かかりつけ病院に電話して話を聞いてもらってしのいだけれど、衝動的にネガティブな行動を起こしたりしなかったのは仲間の存在も大きな助けになっていたように思う。

 

顔を見て、分かち合いをして、お喋りもして、笑って、時には話を聴いてもらって。

同じ目的で、たまたま出会えた人たち。

でも頻繁に顔を合わせて時間を空間を共にして。

それに今月バースデイを迎える仲間。来月・再来月・・と区切りを迎える予定の仲間。

お祝いを直接伝えたい。

そんな人が増えて、また会いたいというような前向きな理由があって。

或いはオンラインで知り合った仲間もいつか実際に会って珈琲でも一緒に飲みたいと思う。

それが、消えたいいなくなりたいという感情より大きいという現状がある。

 

自己嫌悪が強い毎日で、一時的にネガティブな感情が強くなっても、支えてもらってる。

そのことに感謝できるようになった。

そんな変化を起こしてくれた人たち、仲間に感謝。

 

自律神経とは何か

というブルーバックスの本を読んでいる。

 

トラウマ関連の本でなく、『整うとはどういうことか』という副題に興味を惹かれ買った本で気が付いたのが愉快なのだが、泣くというのは安心できる安心しても大丈夫と自分が思ったからなのだな、と。

臨戦態勢でなくともいい。

安心できる人、場所が得られた。

そう自覚すると、そのことを心の中で反芻すると、また泣けてきた。

自己憐憫でない。

感謝と、あとなんだろう。喜びだろうか。そういった感情で泣いている。

ナルシスティックかもしれない。でも、嬉しいしありがたい。

悔しさや怒り、攻撃的な感情で興奮し昂った涙でない。

フィクションや他人の話に共感しての涙でなく自分が恵まれていると感じて泣く涙。

受け止めてくれた、その場にいた人たちに感謝している。

また、そう変化できたのはこれまで関わってくれた人たちのおかげで、たくさんの人たちに感謝。

リラックス

MTGでの『リラックス』に関しての話題時、そういえば自分の考えるリラックスと他者の考えるリラックスは同じなのだろうかと素朴な疑問が浮かびました。(決してテーマを提出くださった方に因縁をつけるというか絡む意図はありません)
これまで深く考える機会というものもなく、漫然と使用していましたがいざ考えてみるときちんとした定義を与えられていないなと。

緊張していない状態、興奮していない状態・・まずはそのようなイメージが浮かびました。
けれど幸福を感じて興奮状態にある場合もありますし、生理学的に血圧や心拍が基準値を~というのも、入浴時であったり或いはリラックスしてはしゃいでいるといった状態を想像すると異なる筈ですし、自律神経といった話になってしまうと本人が認識することが困難です。


読経中の僧侶は、心は穏やかそうに見えますが緊張しているのか否か、傍からは緊張していそうに思えます。

身の危険を感じない、安全であると思える状態ということになるのでしょうか。

 

まずリラックスというのは状態であって、感情ではないということなのかなと。

リラックスをする、とは表現してもリラックスを感じるとは表現しません。また、リラックスが欲しい等とも言わないので異なりそうです。

 

 

・・・・・。

検索してみます。

 

どのようにして穏やかな心の状態にするか。

それができていないとしたら、それを阻んでいるものは何か。

それもまた併せて考えてみたいと思います。

 

 

 

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追記:

常に緊張状態 で検索してみたところ

 

常に緊張しているという症状はどんな病気に関連しますか?
常に緊張しているという症状の原因となる主な病気は次のとおりです。
不安障害
適応障害
気分変調症
強迫性障害
うつ病
過換気症候群パニック障害
社交不安症

常に緊張している | あなたの症状の原因と関連する病気をAIで無料チェック (ubie.app)

という記述がトップに。

 

 

更生

更生についてである。
更生、本来であれば自身が与えた苦痛、犯した罪に関して考えるべきであろう。
だが、未だくすぶっている自身の被害者としての恨みの感情をどうにも望ましく処理できていない。そしてそれが原因で自身の行為と十分に向き合えない。


誰から加害されたと思っているのか。主に両親である。
誰に対する恨みなのか。主に両親と・・・・、やはりこれも両親である。


どのような恨みなのか、どうすればその感情が氷解するのか、じっくりと向き合う必要がある。

被害と加害は全く別のこととして切り離して考える必要があるが、それを行うには自分の理性はあまりにも未熟だ。

自分が思っている被害体験を列記し、リスト化するというのが解決の方法の一つであろうし、今のところそれ以外に思いつかない。

そして、気が収まったら自分が行ったことを別に思い出し箇条書きにしそれぞれ考えるべきだ。

 

応報的か修復的か、そういったことを以前熱弁した記憶もある。

だが、先日気が付いた。自分は加害に対する処罰感情云々というより、悲しかったという思いを聴いて欲しいのだ。

実際に、口に出してみて自分が悲しかったのだと認識できた節がある。

聴いてもらった相手は親や関係者ではない。食事を同席していた仲間たちである。

穏やかに聴いてもらい受け入れてもらった。少なくとも自分はそう感じた、そう思った。

 

 

やはり加害行為と向き合う前につい被害者としての自分が前面に出てくる。

また、親に関して考えるのであれば彼らからの加害についてだけでなく、してもらったこと、感謝するべきことについても考えるのが公平というものだ。

 

どうにも穏やかに、考えるべきことについて考えることができない。

もういちど日を改めて、考えよう。

 

今の自分

相変わらずの恐れまみれ。

あらゆることに怯えている、不安を覚えている。

そんな気がする。

 

何か行動すれば不安になるし、しなくともまた不安になるのだ。

それぞれ別のことを思い、違いはあるが、結局は他人からどう思われているかに行きつく。

 

自分は完璧な人間にでもなりたいのだろうか。

そうではないはずだ。

だが不安になる。

 

褒めてくれているのだろう。

だが、実態がないのに持ち上げられている、もっと斜に構えた表現をするとおだてられているような気がしてしまう。

それでいい気になれば、実は陰で笑われているのでは?などと不安にもなる。

謙遜、それのバランスとでもいえばいいのか、上手な方法がわからない。

お礼だけ言って軽く流す、というのが理想でそうしたいのだが、どうにも上手にできない。

だから褒められると嬉しいし、実際は認められたいという思いが強くある一方で、褒められると居心地の悪い思いも感じてしまう。

 

他人の目を気にしたり他人からの評価を気にしたり、そういったことから抜け出せない。

それでいて、その自分に対する無価値を癒してくれる筈の他人を裁いてもいる。

自分が他人を裁き評定するから他者も自分をそう見ているはずだなどと思うのだ。

他者は自分でない、自分の欠点を投影するべきではない、いくら言い聞かせようとしても、頭に文字列として入っていても行動には反映されていないと自覚できる。

それでまた自己評価が落ち、不安になり、なんなら内心で他者を見下してもいるのか。

そしてそれをするべきでないと自分を叱り。

脳内で自分を裁き、その欠点を自覚できているだけ(それができていない人より)マシ、と慰撫している?

そもそも他人が自覚しているのか否かなど分かるはずもない、であるにもかかわらずだ。

 

「助けを求める」

助けは、まったく見ず知らずの一期一会、赤の他人であれば、比較的にだが深く考えすぎることなく求めることができる。

子供のころに助けを求めたエピソードもいくつかある。

 

10歳ころ、性犯罪被害にあった。

日曜日の朝であったが、翌月曜日、学校を欠席だったか早退だったかして保健所へ行き援助を求めたことを憶えている。

 

まず受付で状況を話し、どこの課で対応をしてくれるのか、繋いでほしいとある意味専門家に委ねた。

警察にも一人で行き、事情を話して指示を仰ごうとした。

 

だが、親には喋らなかった。

膣洗浄などの費用がかかってしまうわけだが、それは自分の小遣いだったか貯金から工面したのだ。

 

憐みの目で見られそうで嫌だった?

そうかもしれない。

いちいち穿った見方をしすぎだと、被害妄想が激しいと、なんだその年齢不相応かつ不必要に高いプライドはと、言いたいことはあるが象徴的な出来事の一つである。

 

 

対人関係、というものが苦手なのであろう。

親族でなくとも、友人知人職場関係、そういった関係が深まってきた相手と上手に距離をとれない・距離感がつかめない。境界線をひくというのもへたくそだ。

自己評価の低さも原因の一つであろうか。

 

業務として対応してもらう、或いは"通りすがりの人に頼みごとをする"ということならばしやすいというのは、自分なりにマニュアルに基づいて行動をしているという感覚が近いかもしれない。

それはしていいことなのだと、自分で決めているように思う。

性善説に基づいて、市民同士助け合うのってイイよね!という風に。

 

 

今を生きる

窃盗を繰り返していたころは、未来は勿論、今さえも見ていなかったように思う。

どこにも焦点があっておらず、目は開いているかもしれないが何を映していて何を考えていたのか、とにかくぼんやりとしていた、或いはぼんやりとしか思い出せない。

未来への展望というものがとにかく無かった。

それは、もしかすると12歳ころからかもしれない。

そして、ただぼんやりと毎日を送っていて、意識下では焦りが出てきた。

万引きが加速した原因の一つだろう。

過去に目を向けるのは、自己憐憫そのもので格好悪いことだと考えていた。

他責はよくないのだと。

過去の清算の必要性を考える。

過去の出来事に関して区切りをつけた方が内心のストレスは和らぐのだ。

 

未来への展望。

それを多少なりとも持てば、今したいこと、もしくはするべき事も見えてくる。